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2011.02.14放送第21回放送 廣田遥(トランポリン競技)
2011.01.16放送第20回放送 福永祐一(競馬騎手)
2010.12.12放送第19回放送 村田亙(7人制ラグビー日本代表監督)
2010.03.08放送第18回放送 赤星憲広(元阪神タイガース)
2010.02.08放送第17回放送 内山高志選手(ボクシング WBA世界スーパーフェザー級チャンピオン)
2010.01.11放送 第16回放送 清宮克幸監督(サントリーサンゴリアス)
2009.12.14放送第15回放送  井川慶 選手(元阪神タイガーズ)
2009.02.09放送第14回放送  赤星憲広 選手 (阪神タイガース)
2009.01.12放送第13回放送  森島寛晃 選手 (セレッソ大阪)  
2008.12.01放送第12回放送 宮崎大輔 選手 (ハンドボール日本代表 大崎電気所属)  
2008.01.14放送第11回放送 セレッソ大阪 柿谷曜一朗選手
2007.03.12放送第10回放送 清宮 克幸 監督
2007.02.26放送第9回放送 加茂 周 監督
2007.1.15放送第8回放送 反町 康治 監督
2006.12.4放送第7回放送  井川 慶
2006.3.27放送第5回放送 中垣内 祐一
2006.2.20放送第4回放送 増田 健太郎
2006.1.16放送第3回放送 中村紀洋
200512.12放送第2回放送 高田 延彦
200511.21放送第1回放送 井川 慶
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第21回放送 廣田遥(トランポリン競技) 2011.02.14放送
バレンタインデーの当日、約束の時間より早めに到着して
時間を潰していますとの連絡をうけ、1階の珈琲ショップに
廣田遥さんをお迎えにいきました。

時間は午後7時、仕事帰りの人々で賑うお店に一角に
あたかもチョコレートを渡そうと恋人を待ちながら健気にお茶を
飲む可愛らしい女性の姿を見つけました。
そんな彼女がトランポリンの日本一の座を10年間守り続ける
最強の女性だとは傍からはだれも想像できなかったことでしょう・・・

全日本10連覇。。。廣田遥さんの強さの源はどこにあるのか?
決して恵まれた体型をしているわけでもない、
人当たりもその辺りに居そうな典型的な20代の女性のそれ・・・

ただひとついえることは「絶対誰にも負けたくない」、
その強い気持ちが競技を続けるモチベーションになっているということ。

単なる負けず嫌いといえばそれまでですが日本一の座を守り続けるには並大抵の精神力では不可能なことだと実感しました。

目指すは来年のロンドン五輪。
その強いハートで世界の檜舞台での活躍を祈るばかりです。

番組担当者より

第20回放送 福永祐一(競馬騎手) 2011.01.16放送
「まずは無事に放送できて良かった。。。」これが番組担当者の率直な感想です。
放送当日の天気予報は「雪」。つまり福永さんが騎乗する京都競馬の開催が中止、翌日に順延になればその夜調整ルームに拘束される福永さんは番組へのご出演ができなくなる、そんな冷や汗ものの状況でした。

当日の朝、予定どおり競馬開催の一報が届くとほっとする間もなく
福永さんの勇姿をひと目見ようと金子さんと共に競馬場に向かいました。
この冬一番の寒さの中、「騎手は大変だよな〜」と他人事のように暖かい室内観覧席で、観戦した我々はお約束どおりJRA様の運営にしっかりとご協力させていただき(笑)本社へと向かい福永さんをお待ちしまた。

「VS」では競馬は初めて向き合うスポーツ。
金子さんも近藤アナウンサーも専門外ということで番組として不安な面もありましたが、いざふたを開けるとその心配は全く必要ありませんでした。
福永さんと金子さんは10年振りに再会も元々、公私共に懇意にされており、おふたりの話はズバズバと本音に切り込む聴き応えのある内容になりました。

番組最後の「あんな猿だった、お前が・・・」という金子さん言葉はこの10年で騎手として人間として大きく成長を成し遂げた福永さんへの最大の賛辞だったのかもしれません。
2010年関西リーディングジョッキーを獲得した福永さん、「こいつにはかなわい」とライバルたちに言わしめるジョッキーになる日もそうと遠くはないと実感した1時間でした。

番組担当者より

第19回放送 村田亙(7人制ラグビー日本代表監督) 2010.12.12放送
村田亙、
風貌といい、男気といい、酒の飲みっぷりといい(笑)、
まさに「これぞ九州男児」というフレーズがぴったりと当てはまる方でした。

村田さんといえば日本人初のプロ選手として活躍、
37歳という高齢で日本代表にも選出された日本ラグビー界きっての名選手のひとり。

そんな村田さんの現在の任務は「ラグビー7人制日本代表監督」。
15人制が大勢をしめる日本ラグビー界において、決して恵まれているとはいえない環境の中、先月の広州アジア大会では見事日本代表を金メダルに導かれました。

“7人制ラグビー”って?と思われる方も多いかと思いますが、通常のラグビーは1チーム15人で行うところ同じ広さのコートを
半分以下の7人で駆け回りまくる、まさに人間の限界に挑む超過酷なスポーツと認識してもらうと分かりやすいかもしれません。

7人制ラグビーは2016年リオ五輪で正式種目に決定、これから7人制ラグビーが脚光を浴びてくることは間違いありません。
「7人制が今後の日本ラグビー界を引っ張る!」
最後に力強いお言葉を放った村田渉さん、これからは「男・村田JAPAN」から目が放せない・・・

番組担当者より

第18回放送 赤星憲広(元阪神タイガース) 2010.03.08放送
前回のご出演からわずか13ヶ月、このような立場でのご出演を誰が予想したでしょうか?
赤星憲広さん、引退会見から3ヶ月、MBSラジオとしては初のご出演となりました。
ユニフォームからスーツへ、そのビッシっとした着こなしは何の違和感もなく板についていました。
番組内では金子さんが選手復帰への勝手なシナリオを思い描いては本人にぶつけていましたが現役へのこだわりは吹っ切れたとのこと、一解説者として野球に向き合っていきたいと思いを語ってくれました。

他のメディアで何度もお話されているんでしょうが
改めて引退までの経緯を聞くとある種の生々しさを感じました。
球団のこと、チームメイトのこと、いままで聞いたことのない、ラジオだから語れる事実も語ってくれたように思いました。

これからお茶の間で彼を目にすることも増えてくるでしょうが
ラジオで見せたシュアな語り口で、いつまでも光り輝く“スター”でいて欲しいと願っています。

番組担当者より

第17回放送 内山高志選手(ボクシング WBA世界スーパーフェザー級チャンピオン) 2010.02.08放送
前回1月11日の放送終了後、番組出演者とスタッフは控え室のテレビに釘付けとなりました。そう、今回のゲスト内山高志選手の世界タイトルマッチの試合でした。
逃げ切れば充分勝てるはずの最終12ラウンド、内山選手は敢えて猛ラッシュをかけチャンピオンのファン・カルロス・サルガドをTKOで倒しWBA世界スーパーフェザー級王座を奪取しました。
一緒に観戦していた清宮克幸監督もこの試合には感銘を受けられたそうで、
後日の監督インタビューでは思わず内山選手の名前を出すほどの熱い熱い試合でした。

さて、会場をリングからスタジオに移した内山選手はとても礼儀正しく、我々からの質問もしっかりと受け答えしてくれる“ナイスガイ”そのものでした。
聞くところによるとアマチュア時代はサラリーマンをしながら練習をしていたとのこと、そういった社会性も身につけておられる人間としても立派なチャンピオンでした。 ご同行されていた後輩の柴田明雄選手(日本&東洋太平洋スーパーウェルター級王者)が崇拝するのも納得できました。

今後は5月に最初の防衛戦、そしていつかは同階級歴代最強といわれているホルヘ・リナレスと戦うと高らかに宣言した内山選手、我々も番組をあげて応援していきます!!

番組担当者より

第16回放送 清宮克幸監督(サントリーサンゴリアス) 2010.01.11放送
2日前にリーグ戦最終戦を終えたばかりの清宮克幸監督、ご多忙の合間を縫って毎日放送東京支社スタジオにお越しくださいました。

久しぶりに再会の金子達仁さんと硬い握手の後、早速、おふたり大好きな麻雀談義に花を咲かせました。聞くところによると清宮監督、相当な腕前をお持ちのようで、一緒に雀卓を囲んだこともある金子さん曰く、「その時の表情はまさしく勝負師の顔、何事においても勝負強さを持ち合わせている男」とかつて大敗を喫した悔しさを交えながらも大絶賛していました。

そして放送が始まってもその表情は相変わらず、その目はリーグ戦を2位で終えたもののプレーオフへ向け確かな手ごたえをつかみ虎視眈々と頂点を狙うまさしく勝負師のそれでした。

サントリーサンゴリアス監督 清宮克幸、この冬、彼の一挙手一投足には目が離せない・・・

番組担当者より

第15回放送  井川慶 選手(元阪神タイガーズ) 2009.12.14放送
3年ぶりの登場となりました!! 元阪神タイガースの井川慶選手!
今年1年はメディアの露出も少なく、井川ファン、往年のタイガースファンも
その消息は大変気になっていたところでした。

休日でひっそりとしたMBS本社、放送前にスタジオにやってきた井川選手、オーラ出しまくってますね〜。そして太ももふとっ!!
聞くところによると太もも周りが70cmもあるそうじゃないですか!
そりゃ3年連続200インニング投げ切るだけありますな!

そんな井川選手、金子さんの鋭い質問にも真摯に受け応えする姿はアメリカに行っても相変わらずだったんですが、若干、タイガース時代よりも少し垢抜けたような気が・・・向こうの生活の話、特にコンビニの話は面白かったなあ。。。
そして大好きなゲームの話は金子さんと波長合いまくりでしたね〜。
なんか到底手の届かないところにいたはずの井川選手を身近に感じることができたひとときでした。

「井川選手、早く日本に戻ってきてタイガースを助けて!」、
リスナーからの叫びとも思えるメールに対しても「アメリカで結果を出す!!」と強く言い放った井川選手、頼もしくみえましたよー!
現在ヤンキース傘下のマイナー(3A)スクラントンで黙々と実績を積み上げておられますがもう一度メジャーの大舞台に立つ日もそう遠くはないと強く思いました!
頑張れ、慶君!!

番組担当者より

第14回放送  赤星憲広 選手 (阪神タイガース) 2009.02.09放送
シドニーの柔らかな春の陽差しが、しかし、屈辱に震える日本選手の足元に鈍い影を作る。中村のりひろが泣いている。松阪大輔が目を伏せる。韓国の豪打によって失意のどん底に突き落とされた日本のスターを、一言を求める記者の人垣が取り囲む。
渋々と足を止め、重い口を開くプロ選手の横を、社会人野球から選ばれた小柄な選手が通りすぎていく。声をかける記者はいない。2000年8月、赤い星は、まだ路傍の石にすぎなかった。
あのとき彼は、赤星憲広は感じていたのだろうか。プロ野球選手になる未来を。タイトルを取り、優勝を経験し、自らもスターダムへと駆け上がる人生を。
わたしには、見えなかった。小さすぎるのではないか。駿足を生かすにも、打てなければ仕方がないのではないか。ずば抜けて弱かった阪神が、逆指名枠を使わずに獲得したドラフト4位の選手に、つまりは他球団の食指を刺激しなかった選手に、いったい何ができるというのか。
だが、彼はやってのけた。
あきらめるのはそれほど難しいことではなかったはずだ。スターたちとの違い、距離を、シドニーでの赤星は思い知らされている。あの人たちとは違う。そう考えるだけで、矮小な得心に身を委ねることもできただろう。
だが、彼はあきらめなかった。
2009年の今、彼はさらなる高みを口にするようになった。
2000本安打。
大学、社会人を経た選手としては、そして阪神生え抜きの野手としては、それぞれ過去に一人ずつしか生まれていない、大いなる高みである。
天空に駆け上がった路傍の石。人は彼を、レッドスターと呼ぶ。

第13回放送  森島寛晃 選手 (セレッソ大阪) 2009.01.12放送
ゴール裏でシャッターチャンスを狙っていたカメラマンは、思わず耳を疑った。
「なんじゃおまえ、やるんか?」
セットプレーの際の激しいポジション争いだった。
相手は2年前のワールドカップで世界王者となった錚々たる面々。
背は高く、胸板は分厚い、そんな屈強な男たちに、一際小柄な日本人選手が食いかかっていた。
時は、2000年。
そのカメラマンは、すでに多くの日本人選手が海外のリーグでプレーする場面を目にしてきた。
だが、彼らの多くは、どこか精神的に呑みこまれ、グランドでの激しい闘争心を露にすることはほとんどなかったという。

森島寛晃は、違った。
モロッコで行われたハッサン国王杯決勝。
世界王者フランスを前にしても、彼はまったく怯えることはなかった。
日本でやっていたときと同じように、理不尽なプレーをしてくる相手には、
火の玉となってぶつかって行った。
闘争心こそが、彼の最大の武器だった。

高校時代の森島は、正直いってさほど印象に残る選手ではなかった。
なにせ、静岡の黄金時代。
東海大一高に限らず、清水商業、清水東にはうっとりするような才能の持ち主がゴロゴロしていた。
卒業後の進路が低迷期にどっぷりつかっていたヤンマーだったというのも、
当時の森島に対する周囲の評価の表れだったという。
それでも、彼は、日本代表になった。
2002年日韓ワールドカップでは、ゴールも決めた。
18歳の時点で、多くのサッカー関係者から見向きもされなかった存在が、
日本に、世界にその名を記したのである。

大きな選手ではない。
ずば抜けたスピードがあるわけでもない。
それでも、国内リーグ戦通算131、日本代表でも12のゴールを森島寛晃は記録した。

森島寛晃、

高校卒業後の18年間は、
サッカー選手にとって気持ちの強さがどれほど大切かということを証明した年月であった。
 

第12回放送 宮崎大輔 選手 (ハンドボール日本代表 大崎電気所属) 2008.12.01放送
    
 

第11回放送 セレッソ大阪 柿谷曜一朗選手 2008.01.14放送
その言葉を安易に使うことの虚しさも、
危うさも、十分にわかっているつもりではある。
いや、わかりすぎていたがゆえに、
最近では、使おうという思い自体が浮かばなくなってきていた。
それでも、彼のプレーを初めて見たとき、
真っ先に浮かんできたのはあの言葉だった。
中田英寿に対しても、
小野伸二に対しても、
中村俊輔に対しても浮かんでこなかったあの言葉だった。

ジニアス−−天才。

 アジアナンバーワンを賭けた北朝鮮との死闘。
絶体絶命の状況で、彼はスウェーデン・ワールドカップ決勝のペレに、85年トヨタカップ決勝のプラティニになった。
飛びこんでくるディフェンダーたちを嘲るようにヒラリと交わし、余裕をもってゴールネットを揺らす。
それはまさに、目撃者たちの記憶に永遠に刻まれるであろう、伝説の一撃だった。
 アジア王者として臨んだ世界大会でも、彼はさらなる伝説を生み出した。
対フランス戦。
国際サッカー連盟主催の大会では「史上最長」とも言われる超ロングシュートである。その映像は、昨年12月、南アフリカで行われたワールドカップ予選抽選会の会場でも繰り返し流され、世界中から集まったメディアやファンをどよめかせていた。
無論、未来はわからない。
 それでも、ようやくハイティーンになったばかりの彼に、わたしは年甲斐もなく夢をみてしまう。
世界で「プレーする」日本人選手ではなく、
世界のスーパースターとなる日本人選手が誕生したのではないか、と。
メッシにも、ボジャンにも負けない至高の才能が現れたのではないか、と。

柿谷曜一朗。いま、わたしを最も興奮させる男の名前である。

第10回放送 清宮 克幸 監督 2007.03.12放送
打倒東芝まであと20秒。

初のトップリーグ制覇をほぼ手中に収めた清宮克幸の頭の中には、優勝監督としてのコメントが浮かんできていたという。

「勝つための材料がすべて入った最高の試合でした」

誤算がなかったわけではない。しかし、ピッチに送りだされた15人の選手たちは、ほぼ試合前のプランを遂行してくれていた。勝てる。あと20秒耐えれば、前年度6位だったサントリーが東芝の連覇を阻むことができる。チームにとっても清宮にとっても、それは、半年前から描いてきたシナリオが会心の大団円を迎える瞬間となるはずだった。

 だが、シナリオは土壇場で暗転した。

 モール、モール、そして、侍バツベイ。

つかみかけた、というよりは、ほぼ完全につかんでいた優勝の栄冠は、サントリーの手から滑り落ちた。日本ラグビー界の歴史に残るであろう素晴らしい熱戦は、奇跡的ともいえる逆転劇で幕を閉じた。
 試合後、記者会見の席に姿を表した清宮の目は赤くに染まっていた。彼は、わずか数十分前に思い浮かべていたのとは、あまりにも対照的な言葉を口にする。

「こんな内容の試合で勝ったって、ちっとも嬉しくない」

ウソだった。勝っていれば、最高の試合になるはずだった。

だが、負けたチームが「最高の試合」と認めることは、自分たちにできる精一杯を出し切り、それでもなお力及ばなかったということになる。東芝との戦いは、これで終わったわけではない。自分たちに余力があるとチラつかせるために、彼は歯を食いしばっての芝居を演じたのだった。

清宮克幸は、そんな男である。

一見無鉄砲、無配慮に聞こえることもある彼の言葉には、それぞれに布石や意味が込められている。時に波紋を呼び、時に嵐を巻き起こしつつも、本人の足元が揺らぐことはない。プロ監督として2年目を迎える今シーズンも、彼は、したたかな風雲児であり続ける。

第9回放送 加茂 周 監督 2007.02.26放送
たとえていうならば、長島茂雄が立教大学の、あるいは王貞治が早稲田実業の監督に就任したようなものかもしれない。

日本の頂点にたち、日の丸をも率いた男は、新しい舞台として母校の監督の座を選んだ。「夢の一つが母校を指揮することだった」会見の席で彼はそう語った。

入れ替え戦への出場が当たり前になってしまった母校を建て直すのは簡単なことではあるまい。まして、報酬はまったくのゼロだという。自宅のある東京から、彼は夢のために西宮にある母校のグラウンドへ通うことになる。

もとより、彼は貪欲な男である。

まだサッカーが日本人から見向きもされていなかったころ、世界のスーパースター、ヴォルフガンク・オベラートを招聘して一流の技術と戦術を取り入れようとしたことがあった。弱小だった日産を強豪チームに育て上げ、ライバルを倒すために移動手段、宿泊施設にまでこだわったこともあった。

根性だけが戦う手段だった時代の日本サッカーにあって、
「ライバルが泊まっているホテルよりも一円でも高いところに泊まる。それが選手たちのプライドにつながる」という彼の考えは、当時明らかに異質で、しかし、後のスタンダードとなるものだった。そんな男が、大学サッカーの監督に就任した。Jリーグ発足以降、一応は右肩あがりの成長を続けてきた日本サッカー界にあって、大学サッカーは「取り残された世界」でもある。

92年、バルセロナ・オリンピックの予選に参加した日本代表選手の大半は大学に所属していたが、もはや、日の丸をつける大学生は完全な少数派となっている。それが関西の大学となれば尚更である。

加茂周、67歳。

関西学院大学の監督に就任した彼は、大学サッカーにどんな未来をみているのか。そして、その先にある日本サッカーの現在と未来を、どう考えているのだろうか。

第8回放送 反町 康治 監督 2007.1.15放送
高校サッカー界の名門、清水東から慶応大学へ。

全日空時代には日本代表にも選ばれた。

選手としては晩年期に入っていたベルマーレ平塚時代でさえも、山梨県から練習を見学にきた期待の大物ルーキーをして「こんなに上手い人が試合にでられないんじゃ、俺なんかがプロとしてやっていけるはずがない」といわしめた逸話をもつ。監督業に身を投じてからは、J2のミドルクラスでさまよっていたアルビレックス新潟をJ1に引き上げ、日本のトップリーグでも上位をうかがえるところまで育て上げた。

そして、満を持しての日本オリンピック代表監督に就任−−。
反町康治のサッカー人生は、一見、順風満帆である。

だが、
エリート街道を一直線に駆け上がってきたと見られがちの男は、
実は、異端の男でもある。サッカーの街・清水。

その象徴でもあった清水東の主力として活躍した反町は、実は、清水の出身ではない。進学先として選んだ慶応大学へは浪人生活を経ての入学であり、全日空にはサラリーマンとして入社した。

海外のサッカーについて語らせればカルト・クラスの知識があるというのに、サッカー・オンリーの人間になることを嫌い、音楽や映画についての造詣も深めてきた。

サッカーのみに埋没することを美徳とする傾向の強かった世界にあって、彼は、相当の逆風も受けてきたはずである。

逆風も、また、風なり。

温かく身体を包み込み、押し上げてくれる風だけでなく、自らの選択によって生じた身を切るように冷たい風さえも、反町康治は帆をはらませる力としてきた。
そして2007年、これまでに培ってきた経験のすべてを、彼は、若い日本代表に注ぎ込もうとしている。

アジア予選が、単なる本大会への通過儀式でしかなかった時代は、すでに終わった。待ち受けるのは、転覆も、座礁もあり得る荒れ狂う海である。
出撃まであと1月あまり。

エリート街道を突き進んできた異端の男は、いま、なにを思うのか。

第7回放送  井川 慶 2006.12.4放送
「ダメ」と「アカン」。「DAME」と「AKAN」。

東京と大阪。

国を同じくし、一つ島の上に並び立つ都市でありながら、否定を意味する口語はこんなにも違う。

ノン。ノー。ナイン。ニエット。

多種多様な言語が入り交じるヨーロッパでさえ、数千キロの隔たりがあろうとも「N」で始まる否定語が圧倒的だというのに、たった600キロしか離れていない東京と大阪では、似ても似つかないアルファベットが否定語の文頭に鎮座している。

言葉は、すなわち文化である。

茨城の高校を卒業した井川慶にとって、大阪はまったくの異文化圏だった。
18歳になるまで培ってきた常識が、時として通じない。

18歳になるまで非常識だと考えていたことが、時に常識としてまかり通る。
なぜ誤解されるのか。罵声を浴びるのか。

距離の短さゆえに見逃されがちな文化の壁が、彼を悩ませ、苦しませ、言葉少なにしていった。

だが、彼はそれを乗り越えた。

ニューヨーク・ヤンキースからの入札が明らかになった日の朝、彼が口にしたのは「阪神の代表として」という言葉だった。
仲間たちの、そしてファンの思いを背負って旅立つことを、彼は誓ったのだ。
楽しい思い出ばかりがあるわけではない大阪に、
しかし、彼は確かに愛着を抱くようになっていた。

野球、サッカー、バレー。

いま、多くの日本人アスリートがより高いレベルの試合を求めて海を渡っている。
そして、海を渡った多くの選手が直面し、苦悩するのは、初めて接する文化との折り合い方である。
結果としてどうしても異文化に溶け込むことができず、すごすごと日本に戻ってくる者も少なくない。

ヒー・ハズ・エクスペリエンス−−井川慶には経験がある。
東京で生まれ、横浜に育ち、埼玉の球団に入った男よりも、異文化の中で苦悩した経験がある。アメリカでの井川慶を苦しめるのは、だから、純粋に実力が足りているか否かというアスリートとしての本質のみとなる。

「DAME」「AKAN」、そして「NO」。大阪を愛せるようになった井川慶ならば、ニューヨークに愛着を抱けるようになるのも、さほど時間はかからないはずだ。

第5回放送 中垣内 祐一 2006.3.27放送
ブーム。
そして、またブーム。
バレーボールにはそんな印象があった。
国際大会がある。
芸能人が総動員される。

大会の終わりは祭りの終焉にも似て、数年後、違った国際大会が開催される際は、また違った芸能人が動員される。

ブームの連鎖。
定着を目指す積み重ねではなく、その時代を焼き尽くす消費の連鎖。

バレーボールの会場でたかれるフラッシュの異常なまでの多さを、だからわたしは、複雑な思いで眺めてきた。そんなとき、堺ブレイザーズというチームの存在を知った。彼らの試合会場に、フラッシュはなかった。

観客は初めて見る芸能人の姿を写真に切り取ることではなく、愛するチームの勝利を祈ることに専念していた。プロ野球ともJリーグとも違う、堺ブレイザーズの試合を見にいかなければ味わえない雰囲気がそこにはあった。

3月18日。日本中の目がWBCに向いていたその日、大阪市中央体育館に集まった4500人の観衆は、日本のバレーボール史上、いや、スポーツ史上においてもそれほどは多くない激闘を目撃した。

テレビ局が、広告代理店がブームを作り出そうとせずとも、バレーボールは見るものの心を打つことができる。そのことを証明するような試合だった。

勝ったのは、堺ブレイザーズ。
監督は、中垣内 祐一である。

第4回放送 増田 健太郎 2006.2.20放送
福井烈がいて、井上悦子がいた。伊達公子が、松岡修造が現れた。

テニスは、大学生が最も愛するスポーツであり、家庭を持ったかつての大学生たちは、こぞってわが子にラケットを握らせた。象徴があり、新星がいて、底辺がある。
あのころ、バラ色の将来を夢想する日本のテニス関係者は少なくなかった。

あれからもう20年になる。

伊達を超える存在は現れなかった。松岡に続く才能も現れなかった。Jリーグよりはるか以前よりクラブ化に取り組み、日本スポーツ界の新たな牽引役となっていくのではと期待されたテニス界は、いま、明らかな停滞の時期にはまり込んでしまっている。

だが、希望が消えたわけではない。

底辺なきスポーツに栄光の継続がないことは、いま、まさにトリノで証明されている。しかし、少なくともテニスには底辺がある。若い才能を育てる舞台もある。そしてなにより、輝かしい時代を知り、情熱を注ぎ続けている者たちがいる。

増田健太郎。

初めて見たとき、彼は神奈川の学校に通う高校1年生だった。次代を担うと期待され、しかし、傾き始めたテニス界の流れに呑み込まれた男。それでも、いまだテニスを愛し続ける男。彼は今宵、人生を賭けたスポーツをいかに語るのだろうか。

第3回放送 中村紀洋 2006.1.16放送
彼の名前が日本中に轟いたのは、2000年の夏だった。

白球を砕かんとする渾身のフルスイングと、こらえきれずに流した敗北の苦い涙。目標のメダルを取り逃がした痛みの代償として、彼は心ならずも、国民的な注目を集める存在となった。2001年のペナントを制したことで、彼の人気はさらに高まった。惜しくも日本一こそ逃したものの、まだ28歳だった彼の前途に疑いをはさむ者はいなかった。

名声は、時として劇薬に変わる。2002年、FA宣言をした彼に降りかかったのは、思いも寄らぬ非難の声だった。己の未来を決定するために必要だった躊躇は、わがままだと受けとめられた。名声をえたことによって、もはや彼の人生は、彼だけのものではなくなっていたのである。

心に刻まれた深い傷は、やがて、頑強だった肉体をも蝕んでいった。2003年23本。2004年19本・・・・・。当たり前のようにとどいていた40本の大台が、次第に遠くなっていく。2回目の出場となったオリンピックも、4年前ほどの輝きを与えてはくれなかった。その年の秋、彼のチームは消滅した。

そして、2006年。1年間のアメリカ生活を終え、彼は再び日本に、大阪に戻ってきた。心に、身体に、数々の傷を負いながら、戻ってきた。

傷は、時として良薬に変わる。夢を見るたびに、彼は傷ついてきた。だが、夢見ることを忘れない限り、痛みを乗り越えた自信が心の幹を太くしていく。

中村紀洋、32歳。

今年彼は、どんな夢をみるのだろうか。

第2回放送 高田 延彦 200512.12放送
奇蹟が、起ころうとしている。友にも裏切られ、後輩から挑発され、資金難に喘いでいた10年前。希望などどこにもなく、あったのは絶望と怒りだけだった。誰も、そして他ならぬ彼自身も、10年後の奇蹟など思い描けずにいた。だが、絶望の中でもしがみつき続けた1本の糸が、彼の奇蹟を呼ぶ。

ヒクソン・グレイシーという名の糸。

400戦無敗をうたわれた男に、彼は2度挑み、2度敗れた。同じ会場で、同じ技で敗れた彼を、ある人は冷笑し、ある人は激しく罵った。一度は最強の名をほしいままにした男にとって、それはまさしく地獄の日々だった。それでも、彼は闘いの舞台から逃げなかった。勝って、負けて。また勝って、また負けて。やがて、彼の敗北はニュースにすらならなくなった。しかし、プライドを切り刻まれた代償として、彼が選んだ闘いの舞台は輝きをましていった。

もし彼がヒクソン・グレイシーに負けなかったら。もし彼がPRIDEのリングに上がり続けなかったら。2005年12月31日の奇蹟はなかった。たった一人の人間にできることなどたかがしれている。それでも、たった一人の執念が、世の中を動かすこともある。

高田延彦、43歳。

彼が心血を注いできた闘いの場は、今年、紅白に闘いを挑む。

第1回放送 井川 慶 200511.21放送
ボタンは、どこでかけ違ってしまったのか。5年前、彼は阪神ファンにとって唯一の光だった。打てない打線。こらえきれない投手陣。彼の築き上げる三振の山と、速球の軌跡ににじむ将来性だけが、最下位に沈む現実を忘れさせてくれた。

2年前、彼は阪神ファンにとって最大の光だった。二度と、そして永遠に生まれないのではと思われた虎からの20勝投手。矢野を推す声があった。金本を推す声もあった。それでも、MVPに選ばれたのは彼だった。異論は、どこからもあがらなかった。

メジャーに行きたい。そう訴えた虎戦士は彼だけではない。例えば、新庄剛志。あのとき、ファンは怒りを露にしただろうか。裏切り者と罵声を浴びせただろうか。派手なリストバンドと言動は愛された。しかし、長髪と寡黙は許されなかった。そして、彼は心を閉ざしていった。

彼は、決して無口な男ではない。麻布でアラ鍋をつついた彼は、赤坂で焼き鳥にかぶりついた彼は、メディアが伝える印象とはまるで違う男だった。ラミレスに打たれたチェンジアップに嘆き、トヨタカップの興奮を語る、思いと情熱を口にすることのできる男だった。

今宵、彼はここにやってくる。私たちは、だから、聞くことができる。ボタンは、どこで掛け違ってしまったのか。かけ直すことは可能なのか。それとも、かけ違ったと見ること自体が、メディアに躍らされている証なのか。

井川慶よ、いま、君の気持ちはどこにあるのか。

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